2008年07月14日
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昭和30年代、下高井戸付近の神田川では子供達がうなぎを採っていたらしい

Written By: 川俣 晶連絡先

 結婚するまで下高井戸在住であった叔父との雑談で、何気なく神田川と永福通りの交点北東側にかつて存在した養魚場について話題をふると、覚えていました。

 そこで、前から気になっていた、「養魚場で養殖されていたものは何か? うなぎか?」という質問をしたところ、それは知りませんでしたが意外がことを話してくれました。

 子供の頃に(おそらく昭和30年代前後)に、神田川でうなぎを採ったそうです。しかし、さばけないので、みんな逃がしたそうです。

 ちなみに、補足的に説明すると、今の神田川は水際に降りることが基本的にできません。柵があるほか、水面が低い位置にあるため、そこまで降りる階段のある場所を使わねば降りられません。しかし、これは昭和40年代に行われた神田川流路の全面的な付け直しと共に行われた護岸工事の結果であって、それ以前の状況はかなり違います。

 他の機会に見た昔の神田川の写真も含めて考えると、以下のようなことが言えるでしょう。

  • 昭和30年代前後まで、神田川の水位は地面の高さとそれほど大きな差はなく、気軽に水面に近づくことができた
  • このことは、増水した際の被害の大きさを示す (ただし、少なくとも昭和20年代ぐらいまでは、神田川周辺の冠水しやすい地域は水田等の農地が主であったように思われる。家屋は主に高台の上にあった)
  • 神田川の少なくとも下高井戸付近ではうなぎが生息していた
  • うなぎは、子供が捕まえられる存在であった
  • しかし、うなぎはさばくのが難しく、子供から見て食用にはならなかった

 さて、この問題は個人的に持っていた「宮川」の謎という話題と連動します。

2008/07/16追記、以下の文章で「宮川は無くなった」という記述は誤りで、実際は移転しただけでした。詳しくは「訂正・うなぎの宮川は移転しただけでした・そして下高井戸駅「魔の空白地帯」の謎」参照。

「宮川」の謎とは何か? §

 現在はもうありませんが、下高井戸の商店街に「宮川」という割と有名なうなぎ屋がありました。うな重等を出す店です。ネットで評判を調べると、末期にはあまり良いものを出していなかったようで、評価はイマイチです。

 さて、ここで生じる疑問は以下の2点です。

  • 大規模繁華街とは言い難く、しかもうなぎに縁があるとは思えない下高井戸に、なぜ「宮川」のような店があったのか
  • 「宮川」はなぜ消えねばならなかったのか

 つまり、神田川ないし養魚場が、新鮮なうなぎの供給元になっていたとすれば、下高井戸にうなぎの店を出す必然性は存在することになります。

 しかし、昭和40年代以降、養魚場は消滅し、様々な理由から神田川はうなぎが生息できる川ではなくなりました。というよりも、汚染によりそもそも魚の住めない川になったわけです。(現在は鯉が泳ぐ)

 これにより、うなぎ屋にとっての下高井戸に立地する必然性は消滅したことになります。もちろん、うなぎを仕入れる方法は他にもあるので、優れた職人がいればしばらくは安泰に営業を継続できたのでしょう。しかし、「下高井戸」という立地にアドバンテージはもはや無いので、徐々に下火になって消えていくのはやむを得ないところなのでしょう。

 以上の経緯は推測に過ぎませんが、とりあえず下高井戸にはうなぎ屋が立地する必然性があった(かもしれない)と気付いたのは収穫でした。

補足 §

 下高井戸の宮川について、以下のように言及しているページがありました。

うなぎ食べある記より「宮川本廛 築地店」に関して

実は筆者がうな重を食べた記憶の第1号店は、 この築地店で修行した職人さんが京王線・下高井戸駅前に開業した分店なのだ。

 つまり、以下のような流れの存在は十分にあり得るような気がします。

  1. 下高井戸には腕の良い職人を引きつける何らかの立地条件が存在した
  2. その条件が消滅しても、安易に移転することはできない。なぜなら、他の立地に優れた場所には、同じ店で修行した別の弟子がのれん分けして店を出しているから
  3. 腕の良い職人が引退すると、別の職人を引きつける立地条件はもう無いので、店を継続することは困難

 あくまで推定に推定を重ねた話に過ぎませんので、このあたりは眉に唾を付けつつお読みください。

下高井戸周辺史雑記